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2006年9月の21件の投稿

2006年9月28日 (木)

娘の傷に塩を擦り込む母

剣呑なタイトルですが、単なる思い付きですので、お気になさらず。

現代人の必需品の一つ、携帯電話。私も一応所持してはいますが、インドア派ぐーたら専業主婦にとっては、実のところ無用の長物です。
滅多に使わないため、充電しない。電池が切れて繋がらないことも多いため、人にも番号を教えない。悪循環成立です。
かくして、夫がどうでもいい用事がある時に、気紛れにかけてくるだけな、私のケータイの普段の役割は、『時計よりも静かな壁飾り』でありました。

さて、そんな壁飾りが、珍しく音を鳴らした、昨日の昼下がり。
愛する亀さんに、ライトを当てろとか消せとか言うのだろうと、上の空で電話を取ると、聞こえてきたのは女性の声。

え? 何?? 誰??? 夫のケータイをなぜ女性が????
浮気か?!とは全く考えません。ズル賢い夫に、この種のミスはあり得ません。
まさか、どこかで事故った?!
しばしパニック。相手の話している内容は、一切耳に入ってきません。

そして十数秒後。「もしもし? ○○ですけれど。わかります?」と言われて、やっと我に返りました。なーんだ。保育園の担任の先生じゃないですか~。

発信元は保育園の電話でした。私が表示を見ていなかっただけです。
私ってば、自分のケータイが、糸電話のごとく、一台の電話だけに繋がっているものと、心の底から信じていたんですよ~。

しかし、先生はなぜ、いきなり優先度4番目の番号に、かけてきたんだろう…。
いや、そんなことより、保育園から電話が入るということは、つまり!
後半へ続く…。

*   *   *   *   *

はい。まりにゃん、やらかしました。発熱ではないです。怪我です。遊んでいて、転んで、顔面強打。流血事故に発展したという連絡でした。
あ、最後の一文は、大げさ度250%で私が脚色したものですので、ご心配なく。

出血したのは、口の中。幸い、顔を出したばかりの前歯は、折れるほど伸びていなかったため、歯茎近辺の出血だけで済んだそうです。本人は、ショックで泣いているものの、お昼は半分くらい食べられたと聞いて、私もほっと力を抜きました。

食欲がある、イコール、元気。
相変わらず大雑把な母親です。

報告しただけで、お迎えは必要ない、と先生が言ってくださいましたので、傷ついた娘はそのまま夕方まで預かっていただくことにしました。

そして夕方。先生方にご迷惑をお詫びした後、引き取った娘のお顔を観察。運動会直前に、青あざができていたら、悲惨だな~と思っていたのですが、外傷は唇の上がすりむけているくらいでした。

さて、ここで、まりにゃんのある秘密をこっそり公開。鋭い方は気付いたかもしれませんが、実はまりにゃんには、お鼻がありません。本人は認めようとしませんが、顔面強打しても、擦り傷一つ負わない、そのちっちゃなかわいい物体を、とてもお鼻とは呼べません。
…と言ったら、半泣きのまりにゃんに殴られました。

家へ帰る道すがら、なぜ転んだのか尋ねてみると、「ねこちゃん遊びをしていて、ずでーんって…」 話の途中でぷっと吹き出し、「ばかなやつ~」と笑い転げた私は、またもや娘にぽかぽか殴られました。

いいじゃーん。無事だったからこそ言える、おふざけなんだからー。
このところやられ放題のママ、容赦なしです。しかし、後日の反撃が恐ろしい………かも。

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2006年9月27日 (水)

闘病記8 再就職

闘病記8 再発1 再就職

1. 再就職

退院後の体調は安定していた。食事制限の指示は出されず、自主的に油分の多い食事を控える程度で、普通の日常生活を送ることができた。

一方、自宅療養は、何ヶ月か前まで多忙な学生だった私には、ひどく落ち着かないものだった。バブルの時代。若者が仕事もせずに家にいるなど、ありえなかった。親に負担をかけないように、しっかり働くこと。それが、私にとって唯一絶対の正規ルートだった。

焦る気持ちに突き動かされて、私は予定より早い社会復帰を目指した。社会経験ゼロのハンデを埋めるために、まず手に職を付けることにした。学生時代に専攻していた語学は、就職に利用できる程の実力ではなかった。そこで、就職に有利だと言われ、興味もあった簿記を、集中して勉強した。2ヵ月で2級を取り、それを武器に再就職活動を始めた。

履歴書に、私は懲りずに、健康状態良好と記入した。罪悪感は無視した。職歴は正直に書いた。3ヶ月で前職を退職した理由については、どこへ行っても必ず聞かれた。腸の潰瘍で入院したためだと、私は答えた。入院して治したという説明で納得してもらえ、それ以上追及されることはなかった。病名については、先方は多分、『潰瘍』を病名だと思うのだろう。尋ねられないので、私も余計な事は言わなかった。

5~6社続けて断られた理由は、病気とは無関係だった。採用担当者達は口を揃えて、資格は実務経験があってこそ有効なのだ、と私に告げた。
それでも、新人を育てる余裕のある会社が、存在しないわけではなかった。平日の通院が必要な私の事情を了承した上で、正社員として採用してくれる会社と、出会うことができた。

その年の12月半ば。私は再び『会社員』の肩書きを手に入れた。
これで私の人生は元に戻る。そう思って安堵した。健康だった頃に描いた将来図が、そのまま通用すると思い込んでいた。

2. 失敗について今思うこと

2番目の会社の在籍期間は2年1ヶ月。結果から先にいうと、ここでも私は受け入れられなかった。

思えば、入院中に勝手に話が進行した最初の就職の顛末は、単純で気楽だった。全ては難病という肩書きのせいだった。私自身に落ち度はない。そう割り切れた。
ただし、病気を悪者にし過ぎたツケは大きかった。

この病気は、これから知り合う人には言えないもの。隠さなければならない、忌まわしいもの。当時の私には、そんな誤った認識があった。病気は自分の一部なのだという自覚が、決定的に欠けていた。病気を持っていることに、罪悪感さえ抱いて臨んだ新しい環境の中で、私が自滅したのは、むしろ当然の結果だったといえる。

私はこれで体の一部を失った。そんな事態を招いたこの2年間の出来事は、10数年たった今でも、思い出すのがとてもつらい。だが、この失敗体験が、その後の、居直り人生を誇れる私を作った。だから私は、当時の自分を哀れみはしても、この道を選んで歩いたことを、悔いてはいない。

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2006年9月25日 (月)

大きくなったら何になる?

まりにゃんの将来の夢は、この間までは看護師さんでした。「ママの病気を治してあげるの~」ということであれば美談なのですが、深い意味はないようです。

「ママが入院したら、お世話してくれる?」と無理矢理こじつけようとしたところ、「うーん………。じゃあ…。ママもみてあげるよ」というお返事。顔には、「しょうがないから」と書いてあります。
冷たいじゃん!

公私混同なママに否定的なクールガールは、最近はアイドルに路線を変更しました。
いいですね~。アイドル。まりにゃんのヘンな性格なら、個性派でいけそうですよ。

そういえば、その少し前は、フィギュアスケーターになりたいと言っていました。あいにく、この辺にはスケートリンクがないため、断念してもらいましたが、小学生になったら、ダンスでも習わせてあげようと、ひそかにチラシを取っておいてあります。
きみは将来、ダンスもできるシンガーソングライターなアイドルを目指しなさい。

さて、華やかな夢を広げるまりにゃんは、地味~に生きてるママに、「ママは大きくなったら何になりたかったの?」と尋ねてきました。ママですか? ママは、確か…。
「お針子さん」
「じゃあ、大きくなって何になったの?」
「病人」

思わず口をついて出たタワゴトに、自己嫌悪に陥るママ。せめて「お嫁さん」とでも言えばいいものを。勝手に脱力しているママに気付かなかったまりにゃんが、「そうなんだ。すごいね~」と感心してくれたのが、せめてもの救いです。

こんな私の娘さん、20年後は何してるんでしょうね。

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2006年9月24日 (日)

闘病記7 後日談

闘病記7 発症6 後日談

10.終わりの形 

私が入院している間に、会社で使用していたロッカーは整理され、私物は病院に届けられた。感謝するより、ため息が出た。自分の居場所はもうないのだと、否応なく実感させられるその紙袋を、私はしばらく手に取れなかった。

退院後、迷惑と心配をかけた人達には、挨拶をしに行くべきだと思いつつ、二度と来るなという意思を、あの紙袋が示しているような気がして、行動を起こせなかった。
タイミングを完全に外す前に、私が所属していた通関課の課長の方から、一度顔を見せにくるようにと連絡が入った。日にちを決めてもらい、出向いた。初出勤時を上回る緊張感を伴った。

元気そうになってよかったと、皆、温かい笑顔を向けてくれた。やさしくされて、気分が沈んだ。この人達ともこの場所とも、もう何の関係もないのだと思うと、虚しくなった。
それから私は課長に連れられて、そのフロアの管理職全員に、挨拶をして回った。退職の挨拶というわけではなく、「退院しました」報告だった。

後日、別の事業所に配属された、同期入社の友人から聞いたところによると、私の退職の真相を知っていたのは、通関課と人事部、そして私の同期入社仲間だけだったらしい。私が『本人の都合で退職した新入社員』として片付けられると、友人は、上司を含めいろいろな人から、一体何があったのかと尋ねられたという。

今さら意味がないように思えた、課長との挨拶回りは、「いつの間にか消えた新人」扱いされていた私の、名誉回復を兼ねていたのだろうか、と後で思った。

組織から切られた私を、通関課の人達は、その後も気にかけてくれた。部署ごとに実施される社員旅行にも、招かれた。会社で最も近くにいた人達は、私や私の病気を責める言葉を口にせず、そのような素振りも見せなかった。1ヶ月間の私の仕事ぶりを、肯定的に話してくれた。

こういった思いやりの全てが、私の自尊心を救い、私が前へ進む力を与えてくれたのだと思う。会社ではなく、そこに所属していた人々に、私は今でも感謝している。

*   *   *   *   *

「発症編終わり」と書いたくせに、すみません。1本追加しました。後味が悪い終わり方が、やはり気になりましたもので。行き当たりばったりで書いているのが、バレバレですよ…。

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タタロチカしましょ

私は今悩んでいる。私の前で、ムスメはさっきからずっと、ご機嫌に歌い踊っている。口ずさんでいる曲は、Tatarochka。 かなりテンポが速い。ムスメの動きも速い。
腰をくねくね、おしりふりふり。屈伸、屈伸。くるくるくるるん。

これを、私にやれと………?

「却下」の一言で済ませたいところだが、あいにくこれは、来週予定されている運動会の、親子ダンス。避けて通れない道となって、私の前に立ちはだかっている。これを危機と呼ばずして、何と呼ぼう。

恥ずかしいから嫌だと言ってるわけじゃない。いや、恥ずかしいには恥ずかしいが、年長さんの親が平等にあてがわれる試練だ。後にビデオを見返す時のことなど考えず、一緒にハジけてしまうのも悪くはない。

問題は私の絶不調のこのお腹。やっと下痢がおさまってきたと思ったら、今は一転して「出ない」病。ベンピではなく、内視鏡カメラが通れなかったという小腸の狭窄部分が、「通せんぼ~」と意地悪をしているものと思われる。

幸か不幸か、妊婦さんの多い現在の年長クラスのママの中では、私の膨張ハラも目立たない。「5ヶ月目に入ったの~」と言ったら、皆信じるだろうな。

昨夜など、張ったお腹が苦しくて、胃が口から飛び出そうになり(???)、明け方まで寝られなかった。今朝、げっそりした私の顔を見た夫は、「おまえ、顔まっしろ!」と言っておもしろがる。心配しろよ………。
かつて「難病のカノジョを生涯守ると誓った男」も、今では「夫の結婚前・結婚後特集」のネタにしかなりゃしない。

ダンスの話に戻るが、「私重いから、代わりに踊る気ない?」と夫に尋ねると、返ってきた答えは、「ばーちゃん連れてくか」 アンタは自分の母親を殺す気か? 心臓止まるよ。間違いなく。
どちらにしても、予定外の事と面倒な事は、絶対やらない夫一族など、初めから当てにしてはいない。いつも通り、私がやるわよ。やりゃーいいんでしょーが!

とりあえず、自分をネタ化して遊んでないで、病院行ってきます~。

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2006年9月21日 (木)

発達障害児(仮)の3年前と現在

自治体の乳幼児健診にて、何度も各種発達障害の候補生にされた前歴を持つ、我が娘。
そんな娘の母親であった私は、自閉症やADHDという言葉には、今でもぴくっと反応するものの、実のところ、そんなに深刻に考えたことはありませんでした。

乳幼児時期は、個人差が激しい時期。小学校に入る時に、足並みが揃っていればいいじゃないという、私の大雑把な方針が、娘のおむつ完全卒業4歳半、というとんでもない事態を生み出したものの、周囲がどう思おうと、私自身はたいして気にしていませんでした。

娘が3歳前後の時、保健センターで「自閉症の診断は、小学生にならないとできないので、それまで様子をみましょう」と、唐突に、深刻そうに言われた時は、ショックよりも何よりも、いつからそういう話になったんだ、とひたすら唖然としていた覚えがあります。

それ以上の説明もなかったので、その夜、夫がネットで見つけた、チェックシートなるものをやってみました。7割くらい当てはまりました。ですが、落ち着きがないだの、こだわりが強いだの、これって、はっきり言って………。

「子供って、大抵こんなものじゃないの?」

珍しく夫婦で意見が一致。放っとこ放っとこと、それっきり保健センターの呼び出しには応じず、3歳半健診もさぼって、今に至ります。今の娘を見る限り、問題はないと思うのですけれどね。

ちなみに、「自閉症診断は小学生から」と、保健師さんの言葉をそのまま書きましたが、この情報の真偽は、多分怪しいです。皆さん鵜呑みにしないでくださいね。



娘にそういった疑いがかけられた、そもそもの根拠はというと、コミュニケーション能力が、かなり劣っていたことにあります。3歳まで喋らなかったとは、時々ブログでも書いていますが、その3年間、娘は感情のマイナス面を表現する時にはいつも、『普通ではない絶叫』という手段を用いていました。

この叫び声によって、相当神経が参ってしまった私と娘の間に、泥沼の親子劇が展開されていたことは、ここでは割愛。悩んで悩んで、どこかで居直る。…というか、逃亡? 上記の私の投げっぷりは、一種の苦肉の策でしたが、それで私は助かったような気がします。多分、娘も。とりあえず、結果オーライになりそうで、ほっとしているところです。

ご存知の方はご存知のように、現在のまりにゃんは、『人に伝えたい事』を、いつも山ほど抱え込んでいる幼児です。かつての近所中に響き渡る意味不明な絶叫は、きっと、じれったさの表現だったのでしょうね。

ブログの1行紹介文にて、マイペース呼ばわりされているまりにゃんも、今はすっかり落ち着いたようにみえます。(喋り過ぎだけど) この形容は、もうそぐわなくなった気がしますが、かつてのまりにゃんの名残りとして、もうちょっとこのままにしておくことに致しましょう。



ということなんですよ、いちごっちさん。(へっぴり腰返上!チワワのおーちゃん ブログにて、ご活躍中!) 中途半端なコメントを書き逃げしてごめんねっ。

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2006年9月17日 (日)

闘病記6 入院中のどうでもいい話

闘病記6 番外編1 入院中のどうでもいい話

発症編、お楽しみいただけましたでしょうか。(あり得ないから)
夢も希望もない終わり方で、申し訳ないです。ただ、その後、転職人生を送り、いろいろな出会いを経験しましたが、『難病』にこれほどのこだわりを見せたのは、この会社と、オットの両親だけでした。世間はそんなに、個人の事情など気にしないものです。

さて、手術編へ移る前に、本編から外したエピソードをご紹介。本当に、どうでもいい話です。

エピソード その1 消灯が早過ぎるんだってば

入院生活序盤戦は、四六時中、寝かせろオーラを漂わせていた私も、発熱地獄が終わると同時に、一転して眠れない病に転身しました。学生上がりの20歳、就寝時間は日付をまたいで、当たり前。21時に寝られたら、それこそ病人です。(病人なんですが)

ある夜、エレベータ付近の窓から見える、東京タワーでも見物してくるか~と、病室を脱出したところ、うっかりばっちり、巡回中の看護師さんと鉢合わせしてしまいました。
ショクム質問を受けて、咄嗟に、「今日、会社をクビになってしまって、将来のこととか、いろいろ考え込んでしまって…」と並べ立て、深夜の散歩のツミをごまかしました。

翌日。医師達が代わる代わる私のところに来ては、「会社、だめになったんだって?」と心配そうに言葉をかけ、いろいろ励ましてくれました。
いや…あの…。私、確かに嘘を言ったわけではありませんが、決してそんなに思いつめているわけでは………。

注意:看護記録に書かれるのは、体の異常だけではありません(…かも)。

エピソード その2 誰のための治療なの

既出ネタです。絶食&高カロリー摂取は、クローン病治療の基本です。しかし、治療開始から1週間で4kg体重が増加した私は、唯一、口から摂取することを許されていた栄養ドリンク(すごくまずい)を、片っ端から洗面所に流しました。
そして、ステロイドは長く続けるとムーンフェイスになると小耳にはさむと、2回に1回、薬をティッシュにくるんで捨てました。

こんな不良な私を、一生懸命お世話してくださった、先生方、看護師さん達、ごめんなさい。

エピソード その3 食べ物のウラミ

絶食なんてたいしたことはないと、思われる方は、多いと思います。確かに、自分の意思や都合で1~2食抜くのは、さほど困難なことではありません。ですが、これが「食べてはいけない」ことが絶対要件となれば、ものの数時間で、落ち着かない気分になってくるはずです。

だめだと言われれば、気になる。そして、やりたくなる。それが、ニンゲンというものです。
はっ。これは、『ぜったい、ゆーこと、きかないもーん』な、娘の心理にも当てはまる?!

さて、6人部屋の食事時間は、絶食患者にとってはゴーモンです。しかも、同室患者さん達が無神経さん揃いだったりすると、もうサイアクです。

「あ~。おいしい~!!」とわざとらしく大声で感想を述べ合い、「こういうおかずが出たのよ」とわざわざ見せに来る人もいます。私が嫌そうな顔をすればするほど、喜びます。
50~60歳にもなるオバさん達が、子供みたいなマネしないでくださいよっ。

差し入れのお菓子配りなどは、病院で禁止してほしい風習です。食べられないからと、断っても断っても、持ってきます。お見舞いの人に食べさせればいいじゃない、と無理矢理置いていきます。
食べることを禁じられている病人の前で、お菓子を食べる友人がどこにいるか!
…と思っていたら、一人いました。高校時代のクラスメートA。(もはや呼び捨て)

お見舞いに来てくれるのは、ありがたいと思うべきなのですが、来るなり、「○○ちゃん(私の名)の顔を見ると落ち着くー」と言って、そのリラックスぶりを証明するかのように、ベッドに転がるのはやめてほしいです。しかも、「お腹空いたぁ~。何かない~?」はないでしょう。引き出しには押し付けられた食べ物が入っていましたが、誰が出してやるものか。

すると、これを聞いていた同室患者が、お菓子を持ってやって来ました。断れ!遠慮するんだ、A! しかしAは、「わぁ~。嬉しい~」と、満面の笑みで受け取りました。ロビーで食べてきなよ、と私が言うと、「○○ちゃんの傍で食べたいの!」と主張。そして、実行しやがりました。それはもう、とろけそーな幸せそうな顔で。

あまりの仕打ちに、わなわな震える私の体。そんな私を見て、同室患者達はいつものごとく、そして、Aも一緒になって、大笑い。

てめーら全員まとめて地獄へ落ちろ!!!!

病院という場所で、こっそり呪いの言葉を吐いたツミを、ここでザンゲさせていただきます。

5 解雇 | 目次 | 7 後日談

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闘病記5 解雇

闘病記5 発症5 解雇

7. 退職勧告 

解雇は今でこそ世間に溢れているが、バブル全盛期だった当時は、解雇といえば懲戒免職。そんな時代だった。

6月半ば。入院中の私に代わって、母が会社の人事部に呼び出され、退職願を提出するよう求められた。完璧に準備された退職手続き書類を前に、母は、私が働きたがっている旨を伝え、決定を覆してもらえるよう訴えたが、聞き届けられることはなかった。それどころか、病気を隠して就職させたのではないかと、暗に非難される始末だった。

帰りの電車で、母は私の将来を思い、涙がこぼれて止まらなくなってしまったという。
その話を私が聞いたのは、随分後になってからだ。どのような時でも、母は決して私の前で涙を見せることはなかった。

私は会社を辞めたくはなかったが、覚悟はしていた。2ヶ月欠勤した以上、仕方がない。
回復を焦る必然性は、なくなった。ほっとする一方で、心にぽっかり穴が空いたような気分だった。学生でもなく社会人でもない。何にも所属していない自分に、戸惑っていた。

母が会社から預かってきた退職手続き書類の中に、手書きのメモが1枚あった。
余分に支給されていたらしい給与の額と、未回収の社会保険料の額などを記した、計算書だった。一番下に、合計何万円だかを返還するようにと、書かれている。
社会人は、欠勤したら会社にお金を払わなければならないのか。シビアな現実だった。

ご丁寧に添えられていた、退職願の書き方の見本に、私は反発を覚えた。
私が望んで辞めるわけじゃない。クビならクビと、言えばいい。
だが、迷惑をかけたのは事実なので、おとなしく見本に従って、「一身上の都合により」と書き込んだ。

8. 社会にとっての難病患者

後日、人事部の係長が、お金と書類を取りに病室を訪れた。その日は、母には仕事に行ってもらった。病名告知も退職勧告も、何でもかんでも、親を通されることに、私はいい加減うんざりしていた。

私は係長に、解雇される理由を言ってほしいと頼んだ。こうなったのは、クローン病のせいなのか、と。
母の話では、人事部の部長は、クローン病が、クローン病が、と繰り返しながらも、「退職を勧める」理由となると、口をつぐんだらしい。

会社にも都合があるのかもしれないが、切られる側にだって都合がある。私にとっては、人生を変える大きな出来事だ。曖昧なまま終わらされては、後々尾を引く。会社を非難するつもりはない。自分のために、知っておきたかっただけだ。

そんな必死な気持ちが通じたのか、あるいは、私がここでごねて、退職願の提出を拒むことを恐れたのか、係長は話してくれた。始めはためらいがちに。やがて熱弁をふるって。
答えは、イエスかノーかだけでよかった。だが、係長はイエスと答えた後、なぜクローン病がいけないのかまでをも、説明してくれた。

欠勤日数は関係ない。あなたが怪我か普通の病気だったなら、問題はなかった。だが、あなたはクローン病。完治することのない難病患者だ。会社は常に、自社を成長させていきたい。そのために人を雇う。だが、障害者はマイナス要因だ。あなたの周りの社員は、常にあなたに気を遣い、再発すれば、あなたの分の負担を強いられる。そのような不公正を、会社は見過ごしにはできない。一生懸命に会社のために働いてくれている社員を、会社は守る義務と責任がある。企業には、障害者を雇用する義務が課せられているが、当社は障害者を受け入れるより、罰則金を支払うことを選ぶ。

語尾や順番、突っ込みどころはおいておくとして、主だった内容はこの通り。
私は、ああ、なるほど、と妙に感銘を受け、納得したと答えた。しかし、大企業でさえフォローできないと言うのなら、私はこれから、どこでどうやって生きていけばいいのだろう。

差し当たり、自分の中で区切りは付けられた。
この時の係長の言葉は、人ではなく、企業という名の機械か何かが発したものと捉えて、恨みに思ったことはない。ここで与えられた言葉は、私のその後の人生の指標となった。 この先戦っていく相手は、こういった社会なのだという意識が、私の中に根付いた。

9. 退院

7月半ば。輸液用の管が体から抜かれた。同時に、文字通り夢にまで見た、食事が再開された。流動食を数日続けた後、3分粥、5分粥と昇格。恐れた発熱はなかった。
これも夢にまで見た退院話が、ついに出た。そして、普通食に昇格した翌日、退院した。
7月31日。丸3ヶ月の入院生活が終わった。

だが、これで終わらないのが、クローン病が難病である所以だった。そのことを、あまりにも早く、私は思い知らされることになる。


闘病記:発症編 終わり

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2006年9月15日 (金)

闘病記4 難病

闘病記4 発症4 難病

5. 病名判明 

自分の娘が、クローン病という難病である可能性が高いと知らされた時、私の母はひどく落胆したという。主治医は、原因がわかってよかったですね、と喜んでくれたそうだが、母にしてみれば、難病という言葉の響きは、そんなに単純に割り切れる問題ではなかったに違いない。

一方、当人である私の感想はというと、医師と同じだった。
よかった、と思った。病名のある病気。私は一人じゃない。難病だか何だか知らないが、この熱は下がると言われた。それで十分だった。

自業自得な要素もあったとはいえ、長引く原因不明の異常に、私はだいぶ参っていた。
35℃と39℃を行ったり来たりする毎日で、体力と気力はどんどん低下していった。

病院は、いい若い者が昼間からだらだらすべきではない、という方針だったのか、熱がない時に眠っていると、起こされた。散歩でもして体力を付けるようにと言われたが、私は眠る以外のことをしたくなかった。いつも時計を見ていた。消灯までの時間を、計っていた。

熱の最中、よく夢を見た。目を覚ますと、夢と現実の境目があやふやで、自分が誰で、今どこにいるのか、把握するまで時間がかかる。そんな事が幾度もあった。

この辺りから、私はもうおしまいなのかな、と思うようになった。最悪の事態も、考えていた。
その頃の私は、難病という言葉に動揺するほど、自分の未来を楽観視していなかった。

6. 転院

5月末。この病院の系列であるJ医科大学付属病院の外来に写真を持参し、クローン病と正式に診断される。
6月。空きベッドを優先的に割り当てられ、J医大の外科病棟に転院。

転院した夜、鎖骨の下から心臓近くの静脈まで、細い管を挿入する処置を施された。そこに点滴が繋がれる。1ヶ月半の絶食生活がスタートした。
腸を完全に休ませる。その効果はすぐに現れた。
3ヶ月続いた発熱生活は、その夜を最後に、終わった。

大腸内視鏡検査が、2回実施された。出血を起こすほどの炎症部分を、カメラがじかに擦る痛みは、想像を絶するものがあった。泣いているという意識はないのに、涙が勝手に目からあふれて、流れ続けた。看護師が一人私に付きっきりになり、検査中ずっと私の手を握り、頭を撫でてくれていた。

熱が治まり、気力を根こそぎ奪ってくれた倦怠感がなくなると、私はまた苦もなく歩けるようになった。それが嬉しくて、点滴台を引きずりながら、病棟中を歩き回った。
自分は元気になれると確信した。
入院の長期化に伴って、諦めていた復職にも、前向きな気持ちが戻って来た。

私はまだ、欠勤扱いで会社に在籍していた。所属部署の人々は交代で病院を訪れ、私が元気になって戻ってくる日を待っている、と言ってくれた。本心から言ってくれていたと思う。
だが、この会社は大企業だった。長期欠勤中の社員の進退を決めるのは人事部で、決定は冷徹に下された。

6月末付で解雇。
理由は、欠勤日数ではなく、私がクローン病だったから。難病患者はこの会社に不要だと、明言された。

3 入院 | 目次 | 5 解雇

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2006年9月13日 (水)

勝利する娘

今朝、娘がたいそうコナマイキな事を抜かしたため、私は、「もう、まりにゃんなんか知らない。つーん」と言って、そっぽを向いてやりました。
通園路で見捨てられることを恐れるまりにゃんは、通常はここで、にゃーにゃー鳴きながら(誤字ではない)、すりすりしてくるのですが、今日はむす~としたままです。

「そんなこと言うママなんて…。もーっ。ママのお腹なんか………」
「お腹ぶつよ!」と言った前科のある娘。最後まで言い切る前に、ママに睨まれます。弱い者いじめは許しませんよ! (注:お腹に胎児は入っていません)

弱いってアナタ…。どっちが大きいのかと、突っ込んではいけません。我が家における力関係は、以下の通り。
  ママ < まりにゃん < パパ < 亀
長さ5cmの亀が、我が家では最強なのです。夫のすげー溺愛ぶりからすると、亀に頼まれたら、別荘だって買ってやるに違いありません。(参考:9/8付記事「泥沼夫婦の後日談」)

小知恵が回るまりにゃんは、咄嗟に方向転換を図りました。
「ママのお腹なんか………。調べるよ!」
意味不明です。しかしまりにゃんは、ママのヒヤヤカな視線など完全無視して、ちっちゃなアタマを懸命に働かせているもよう。そして、反撃開始です。

「ママの頭も! だって、ママの頭、変なんだもん!」
オイ。
「お腹も変だし。頭も変だし。だから調べてみるの。そうすれば、わかるかもしれないでしょ? ママの考え方って怪しいから、ちゃんと調べて、まり、どうしたらいいのか考えなくちゃ」

自分のエンゼツに、次第に酔っていく、まりにゃん。ママが絶句しているのをいいことに、変だ、怪しいと、盛んにまくし立てます。
そして、精神的によれよれ~なママは、勝利を確信してにっこにこ~の娘に手を取られて、保育園までの残りの道を歩きました。

これが私の捏造小咄であったなら、どんなにいいか…!!(涙)
6歳でこの口の達者ぶり。1年先、2年先を思うと………。
私、逃亡してもいいですか?

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2006年9月12日 (火)

闘病記3 入院

闘病記3 発症3 入院

4. 入院

5月2日。地元の総合病院に入院した。
入院すれば、必ず、そしてすぐに治るものと、私は思っていた。
だが、1~2週間と言われた入院は、結局3ヶ月に及んだ。

血液検査で、体のどこかに炎症が存在することが、確認された。場所は特定できないものの、抗生物質が有効だという説明を受け、1日に2回、200mlの点滴を投与された。
吐き気がしたり、涙が流れっぱなしになる、といった変な副作用が出て、薬は3回変更された。どれも、効果は出なかった。熱は、毎日必ず39℃まで上がった。

炎症の存在が、数値によって証明されたことで、私はとてもほっとした。
この発熱は就職プレッシャーによるものという説が、これで完全に打ち消された。自分の精神的な弱さのせいではないか。そんな引け目から、ようやく解放された。

原因の特定は難航した。症状は発熱のみ。患者はそれまで健康だった若者。しかも、私はその病院の職員の家族だった。医師も必死だったらしい。当直の日は、私のカルテや資料を抱えて部屋にこもっていると、後に看護師から聞かされた。

腹痛という新たな症状が加わったのは、入院して1週間から10日くらいたった頃だったと思う。食事中に時々、右の脇腹に、きりきりとした痛みを覚えることがあった。小さい頃から、これといった理由もなく腹痛を起こすことがあった私は、気にしなかった。一応、「時々この辺が痛いんですよねー」と、様子を聞きに来る看護師には報告した。

もちろん、看護師も医師も、どうでもよさげな私の発言を重視した。
腹部レントゲンやCTスキャン等を立て続けに行った。生まれて始めて、婦人科の診察も受けた。
婦人科受診に関しては、「嫌ならいいんだよ」と、医師は判断を私に委ねた。私が若くて見た目も子供そのものだったため、他の全ての検査で、外れの結果が出てからでもいい、と配慮してくれたものらしい。

ところで、このころ私には、自分一人が承知している、別の異常があった。
下血。4月の半ばから、排便時にトイレが真っ赤に染まるほどの出血があることを、私は誰にも話していなかった。
その事実を私が白状したのは、この辺りの時期だったと思う。

もっと早く言っていれば、病名が判明するまでの時間を短縮できたことは、間違いない。
一体なぜ黙っていたのか。
もちろん私とて、自分の病気の原因究明に、非協力的であろうとしたわけではなかった。
痔ではないかと、誰かに言われたか読んだかで、恥ずかしかったのと、発熱と因果関係があるとは全く思わず、わざわざ言わなくてもいいだろうと、勝手に判断していたためだった。
若い娘が下の異常を言いづらいのは、仕方ないと解釈されたものなのか、叱られはしなかった。

検査で、異常は見つからなかった。冬に受けていた胃のバリウム検査を、もう一度やろうという話になった時、1週間前のCT写真を確認した別の医師が、影のようなものを見つけた。

5月20日。大腸バリウム検査実施。
大腸の上の部分、上行結腸に異常が確認された。

クローン病。
原因不明で、治療法が確立されていない疾患の一つ。
難病だった。

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2006年9月11日 (月)

夢のあるお話

2~3年前のお話です。

真偽が定かではない、胎児の記憶。
本人が覚えていられるのは3歳までだと、どこかで聞いてきた私は、それを娘に是非とも尋ねてみたくて、うずうずしていました。
深い意味はないのですけれどね。ただなんとなく。

ところがまりにゃんは、3歳になっても、ろくすっぽ喋れないお子ちゃまでした。今の姿からは想像もできませんが、心の発達が遅れぎみな、保健センターの呼び出し常連さん。胎児時代の記憶を語るなんて高等技術、ちょっと無理かな~と思っていたのですが、4歳になった時、私の問いに答えてくれました。いわく。

「ママのお腹の中は、ごーごー言ってて、うるさかった」
あ…。あのー………。
「大変だったの~」
にっこりまりにゃん。

それから、「こーんな風に、動いていたんだよー」と身振り手振りを交えて熱演してみせたり、「ママに早く会いたいって、ずぅ~っと思っていたのー」なんて言ってみたり。
話が出来過ぎになってくると、感動するより胡散くさ~と思ってしまう、現実的なママ。
現実と空想がごっちゃになるのは、幼児の特徴。話半分と思っておくことに致しましょう。

しかし、「うるさい」っていうのは、何なんだ。
そこだけ根に持つ私のお腹は、確かに毎日ごろごろ鳴ってる壊れ物。リップサービスの前に、真っ先にそれを指摘してくるとは、やっぱり、ちょっとは真実も入っているのかな~と、思ってみたりして。

こういう題材をもってしても、かわいいお話としてまとまらない、哀れな母子の「夢のあるお話」でした。

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闘病記2 就職

闘病記2 発症2 就職

3.発熱継続・倦怠感

4月1日。早朝3時に、強い悪寒を感じて目が覚める。38.2℃。目の前が真っ暗になった。どうしよう、どうしようと悶々としているうちに、夜が明けた。6時を回った頃、熱は下がった。睡眠不足と疲労でふらふらしながらも、心からほっとして、出勤支度に取り掛かった。
それが私の社会人生活のスタートだった。

それから毎日、深夜になると必ず、38℃前後の熱が出た。朝には35℃まで下がる。そのような状態でも、会社には行けた。それが妙な自信となって、発熱については、あまり気にしなくなった。

厄介だったのは、すさまじい倦怠感だった。これをねじ伏せるために、気力を総動員した。
朝、身支度を済ませた後に、ベッドに寝転がって、「大丈夫。頑張れる」と自分に言い聞かせる時間は、必須だった。

会社では、体の不調を隠していた。入社して日が浅過ぎた。相談できる人がいなかった。
忙しい部署だった。新人の私にできることなど限られていたが、定時上がりできる雰囲気はなく、初日も含めて、毎日1~2時間残された。

地元の駅で、駅員さんが機械的に繰り返す、「今日も1日お疲れ様でした~」という言葉が、ひどく心に染みた。それが、私にとって1日が終わった合図だった。張り詰めた気がそこで緩み、夜の道を毎日泣きながら歩いて帰った。家に着くと平静を装い、そして、お風呂でシャワーの音を響かせて、また泣いた。

体の具合が悪いから、というよりも、何が何だかわからず、どうしたらいいのかわからず、ただひたすら不安でたまらなかった。
会社を休む、あるいは辞めて、体を治すことに専念するという選択肢を、このころの私は全く思いつかなかった。

私が休んだところで、会社は困らない。新人など、むしろお荷物だということは、承知していた。それでも、会社に行き続けることにこだわった私は、ただがむしゃらなだけだった。
それまでの20年の人生の中で、私は挫折を経験したことがなかった。割り切るということも知らず、ひたすら頑張る以外に道はないと、信じ込んでいた。他に何も見えなかった。

隔週土曜の休日に、病院に行った。さすがにもう風邪とは言われなかったが、医師も困惑しきっていた。

4月29日。祝日で会社は休みだった。久しぶりに、昼間から熱が上がった。この変則的な発熱としては初めて、39℃を超えた。そしてついに、起き上がることができなくなった。どんなに苦しくても、意思の力で動すことができた体が、動かない。
もうだめだと思った。これ以上、隠し通せない。

翌日、熱は下がり、起き上がることもできたが、私は会社に遅刻を願い出た。ずっと熱が続いているのだと、ようやく告白した。

遅刻の許可を得て、病院へ行った。血液検査では何もわからなかったそうだが、見事な折れ線グラフをなす私の熱計表を見て、医師は私に入院を勧めた。
仕事があるから入院はできないと言い張る私を、医師は説得にかかった。
「でも、もうつらいでしょう?」という言葉に、大きく心が揺れた。

私が「つらい」状態にあるようにみえるという、外から保証。私の前に示された逃げ道。
逃げ込んでもいいのだろうか。そこまで私は追い詰められているのだろうか。
自問してみた。そうは思わなかった。私はまだ、限界まで頑張ってはいない。まだやれる。
だが、もう嫌だった。逃げたかった。

入院に同意した。
罪悪感があった。頑張るのをやめることに対しての。
この期に及んで尚、私は自分が何らかの病気にかかっているとは、全く思ってもいなかった。

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2006年9月10日 (日)

闘病記1 兆候

闘病記1 発症1 兆候

1. 鉄欠乏性貧血~19歳

就職活動に明け暮れたその夏、風邪で寝込むことなど、ほとんどなかった私にしては珍しく、よく風邪を引いた。複数の企業の面接官から、「随分顔が白いですね」と指摘を受けた。私は「元々色が白いので」と答えていた。嘘をついている気も、隠し事をしているつもりも、全くなかった。

就職活動後半戦。ある企業の面接試験会場で、エレベータの鏡に映った自分の顔に、ぞっとして飛び上がったことがある。幽霊かと思った。ひどい顔色だった。

全ては、たまたま引いた風邪のせいだと考えていた。
後で思えば、この時から、既に始まっていたのだと思う。

体力の低下は徐々に現れた。自分の体がどうもおかしいと、意識するようになったのは、日常生活に支障が出始めてからだった。

接客のアルバイト中、頻繁に立ちくらみを起こした。
学校へもなかなか行けなくなった。高台にある学校へは、百何十段かの急な石段を登らねばならない。階段を見上げただけで気が遠くなり、Uターンした。出席日数と取得単位には余裕があったため、卒業に影響はなかった。

風邪で受診した病院で、貧血の傾向があると言われ、増血剤を処方された。
その数週間後、内定企業の健康診断で引っかかり、再検査に呼び出された。
ヘモグロビン7g、ヘマトクリット値20%台という数値を示され、「貧血の傾向」どころか、強い鉄欠乏性貧血だと言われた。

履歴書に、健康状態「良好」と書いたことが問題視され、内定取り消し寸前となった。再検で増血剤の効果が認められたことから、救済された。入社までに数値を正常に戻すことが条件だった。

次に受診した医師は、増血剤を処方する一方で、貧血の原因を調べるために、胃のバリウム検査等を実施してくれたが、異常は見つからなかった。

2. 発熱

2月。ヘモグロビンが10gに乗った。ほぼ標準。もう大丈夫だと、安堵した。
その一方で、体のだるさは一向に取れなかった。就職直前まで続けるつもりだったアルバイトも、やめた。家ではいつも、床に寝転がっていたため、家族に鬱陶しがられた。怠け病だと、私自身がそう思っていた。

3月。40℃の発熱。米国旅行から帰国した兄が、数日前から同様に熱を出していたため、アメリカ風邪(勝手に命名)を移されたものと解釈。1週間で一旦平熱に戻った。

2~3日後、熱がぶり返した。37~38℃まで上がった後、数時間で下がる。それが繰り返された。頻度は、2日に1回よりは多かった、という程度だったと思う。

病院では、風邪が治りきっていないだけだと言われた。だが、1週間、2週間たっても、一向によくなる気配がなかった。
卒業式には朦朧とした頭で出席した。謝恩会はパス。20歳の誕生日も熱の中で迎えた。就職を控え、最後となる長期休みにやっておきたかったことは、何一つできなかった。

入社日が近付いていた。
この熱が下がるのか、間に合うのか。焦る気持ちと不安は、日に日に膨れ上がっていく。
これまでの体調不良の集大成ででもあるかのような連日の発熱が、4月1日までに都合よく治まるとは、到底思えなくなっていた。それでも、下がってくれ、治ってくれと、毎日強く願っていた。

3月30日。そして31日。発熱はなかった。

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闘病記 前書き

闘病記 前書き

このブログにおいて、かなり中途半端に扱われている私の既往症、クローン病。
身近に患者さんがいる、という方でもなければ、ほとんどの方はご存じないと思われる、まだまだ希少価値な病気です。

そんな奇病と私の付き合いも、かれこれ18年。クローン病自体は、15年半おとなしく眠っていてくれるものの、合併症とは縁が切れません。
ゆえに、日記ブログなんて書いていると、病気を語る気はさらさらないのに、出るわ出るわ。愚痴とぼやきのオンパレード。育児ブログだと思って見に来てくださる方には、わけがわかりませんよね。

そこで今さらですが、簡単に説明。

クローン病とは、大腸及び小腸の粘膜に、慢性の炎症または潰瘍を引き起こす原因不明の疾患で、現在特定疾患に指定されている121疾患のうちの一つです。
詳細を知りたい方は、こちら から。(難病情報センターホームページ クローン病の項目)

さて、先日、諸々の理由から、大昔の闘病生活を振り返ってみようと思い立った私。「つらかった体験談」は、かなり恥ずかしいので、さっぱりした「記録」形式で書こうと思ったのですが、見事に失敗。結局、普段の書き方に近い、日記風味になりました。
つまり、だらだら長いです。その分、先も長いです。スミマセン。

大まかな区分はこんな感じ。
 1.活動期その1
 2.活動期その2
 3.緩解期:社会復帰~結婚・妊娠
 4.出産

内容についてですが、先日の予告で暴露しましたように、私はこの病気に関する知識が非常に不足しております。症状を客観的に示す数値データなども、ヘモグロビン値以外、一切知りません。さらに、20代の頃は日記もつけていませんでした。
当時の症状と、その時自分が感じたことなどを、記憶だけで書いた、感想文的な読み物になると思います。

クローン病関連の話を一まとめにしておきたいため、コメント返信内容を含めた既出事項を、再度記載することもあると思います。ご了承ください。
リクエストのある妊娠出産編については、できるだけ優先して書きたい気持ちは山々なのですが、メモ書きでつまずいているため、どうなるかは………。すみません。

タイトルは「闘病記」で統一。本数は多分、十数本。不定期更新。
手元でまとめていると、永遠に完成しない気配が濃厚なので、見切り発車的にスタートします。

「お腹がいつも変なママ」に振り回されている我が娘に、こんなママも、昔は真面目に一生懸命に生きていたんだよ、という言い訳メッセージを込めて。

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2006年9月 8日 (金)

泥沼夫婦の後日談

本日まりにゃん、元気一杯に保育園に復帰しました。

実は昨日のうちに、完全復活しておりました。1日中元気で、まー喋る喋る…。
ふにゃふにゃぐずられるより、いいんだけれど…。いいんだけれど…でも! やっぱり疲れます。1日中喋りかけられ、質問攻めにあっていると。

実際体も疲れていたので、這いずるようにして、居間に広げっぱなしにしていた、まりにゃんの布団に侵入し、寝たふりをしていたら、本当に寝てしまいました。

気が付くと、まりにゃんが私に布団をかけ、お母さんみたいな顔をして、私のお腹の辺りを、リズミカルにぽんぽんと叩いています。
感動的~な光景のようでもありますが、まりにゃんが私をぬいぐるみ扱いしているのが、気になる…。

昨夜も体調に異常なし。今日は保育園行き、確定です。
朝、「今日は大丈夫ね」と形だけの確認を取ると、まりにゃんは妙に生真面目な顔で、「保育園へ行って、どうするの?」と私に問い返してきました。
は? どうするって…。何?
質問の意味がわからず、私が困惑していると、まりにゃんはじれったげに続けます。
「だからー。お昼帰りとかぁ」
ああ、なるほど。そういうことですか。
「元気なんだから、1日行って来なよ」
「すぐにそうはいかないの! 病気の時は、お昼帰りから始めて、それから段々慣らしていくの!」

きちんと系統立てて、いっちょまえの事を、言えば言うほど笑えるのは、コドモの気の毒な宿命というものです。
おもむろにメモ帳を引きちぎり、「今のセリフ、もう1回!」とリクエストする私。

最近自分がネタとして利用されていることを、うすうす察しているまりにゃんは、ただでさえぷくぷくのほっぺたを、一層膨らませて、「落書きしに行くよ!!」と鉛筆を持って、襲い掛かってきました。
危ないからやめなさいってば~。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

ところで、先日妻にこっそり悪口を公開された我が夫は、あれから妙に明るく機嫌よさげに振舞っています。昨日はケーキを買ってきましたし、もしかして、私のご機嫌取ってます?
ためしに、「私、ゼータクヒンが欲しい」と言ってみたところ、何が欲しいのかと、具体的に聞いてきましたよ…!

本当に何か買ってくれたりして? 思わず顔がほころぶゲンキンな私。たとえ、物で釣れるお手軽女と思われようと、何ももらえないよりは、もらった方がいいに決まってる。これで、気分もすっきりするかもしれない。よし! ここはひとつ、専業主婦のへそくりでは手が出ない、コウカな物をねだらなくては! 私が欲しいもの…。欲しいものといえば…。

「別荘買って!!」

夫はなーんだと露骨にほっとした表情。「それじゃ、庭に小屋を建ててあげよう」
庭ぁ? 車1台分のスペースしかないじゃない! それに、同居人さん達の部屋の真ん前だよっ! やだよ!! いや、それより、そんなことをマジになって検討するな、ワタシ!!

私が冗談を言っていると思ったらしい夫は、これで一件落着と、どこかへ行ってしまいました。
いえ…。私、ふざけたつもりは全くなかったのですが…。自分の城がほしいと、願うあまり、つい………。

地に足をつけ、現実に則した願いごとを、常に準備しておいた方がよさそうです。

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2006年9月 6日 (水)

8年夫婦

最悪でした。昨日。娘の体調悪化。夫婦喧嘩勃発。胃のあたりが気持ち悪いです。
私はまだ、理性が回復していないのかもしれません。ゆえに、娘を無理矢理 昼寝させて確保した貴重な時間に、こんなの書いてます。
今回は、夫婦喧嘩ネタ。中途半端に泥沼です。心の健康を維持したい方は、お引き返しいただいた方がよろしいかと…!


昨日、日中は絶好調でエンドレストークを展開し、どたばた暴れていた、病気のはずの子供が、夕方になって、「だるい~。だるい~」と、ぐだぐだし始めました。
発熱体験なら任せとけ!な私は、来たな~と直感。まりにゃんを膝に乗っけて、検温。

ぐんぐん上がる体温計の数値にショックを受けて、「熱やだよぉ~」と泣き出すまりにゃん。
その時、たまたま早く帰宅していた夫の口から、「そんなことで、泣くなよ!」という罵声が飛んできました。

ぐずりながらも、じっと寝ていないまりにゃんに、苛立ちを募らせていた夫。彼には、なぜ娘が頻繁に体勢を変えるのか、その意味がわかっていなかったようです。
これは遊んでいるんじゃなくて、苦しくて身をよじっているんだよっ!!
と、解説しなくては、わからないのでしょうか?

「そんな言い方しないで」と咎める私を、夫は無視。そして。
「泣いたってしょうがないだろ! 泣けば熱が下がるのか?!」

高熱を出して、苦しんで泣いている幼児を、糾弾するの?!

私もぶち切れました。日頃はむしろ薄情な母親ですが、病気で苦しむ子供には甘いです。体の不調を訴える子供に、かつて病気に苦しんだ自分の姿が重なるため、尚更です。
パパに怒鳴られ、萎縮する娘を、何としても守らねばなりません。

「6歳の子供に、何ばかなこと言ってるのよ!」
「もう6歳だろ!」
「まだ6歳なの!」
「赤ちゃんじゃあるまいし、そうやって甘やかすから、おまえはだめなんだ!」

この先の会話は、見苦しさ満載。ゆえに、ざくっとカット。
要は、子供が病気になるたびに、夫かその親が始める、私の責任追求問題です。

普段は、彼らのペースに巻き込まれて、言い負かされ、打ちひしがれてしまう私ですが、今回は踏みとどまりました。
私の膝に頭を乗せて、むせび泣いている小さな子供。39℃を超えた体の熱さが、逆に私を冷静にしてくれます。

どんどん本質から外れていく夫の論法を、途中で遮って、「あなたは何に対して怒っているの」と直球勝負をかけました。珍しく彼は答えに詰まり、「おまえらとは(チビスケ込みか?)、考え方が合わないんだよ」と吐き捨てて、そっぽを向きました。

あんたみたいな冷血人間と、考え方が合わなくて、まったく幸いだったわよ!!

…と心の中で叫んだのは、後のことでした。この時は、彼が黙りさえすれば、なんでもよかったのです。夫の機嫌や夕食の支度などより、苦しくて泣いている娘をなだめることの方が、私には重要です。

私達に背を向けてパソコンをしていた彼も、やがて頭が冷えたのでしょう。30分ほどすると傍に来て、娘の頭を撫でました。まりにゃんは父親の顔から目をそらしはしなかったものの、反応を返しません。
そのことに彼は傷ついたらしく、「おれは家にいない方がいいみたいだから、仕事に戻る」と言い出しました。

夫が、自分の気分の問題で、高熱で苦しむ子供を置いて出て行けるような人間なら、私は一生彼を軽蔑するだろう。
そんな風に漠然と考えながら、出掛ける準備をしている彼を、私は黙って見ていました。
まりにゃんも何も言いませんでした。

そして夫は、最後の最後で、自分の意地よりも、娘の父親であることを選びました。

謝罪等はありませんでしたが、もう、娘に乱暴な言葉を投げつけることはせず、普段のようにかわいがって、夜中に熱でぐずっても、辛抱強く接していました。
それを反省と受け取り、私も普通を装って夫と会話をしているものの、胸のもやもやは晴れません。

「考え方が合わないんだよ」
納得でき過ぎです。
恋愛結婚も、行き着く先はこんなもの? そんな風に思いながらも、何事もなかったように、また年月を重ねていくのも、夫婦なのかもしれませんが…。

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2006年9月 5日 (火)

お呼び出し

幼児の母が最も恐れるもの(の一つ)。
それは、園からのお迎えコール。

我が家の電話が、「花のワルツ」(←保育園の着信音に設定)を奏でると、私は瞬間的にパニック状態に陥ります。本当に一瞬なのですが、その間、あらゆるよくない状況が、頭の中を駆け巡ります。慣れませんねー。3年以上預けているのに。

さて、昨日の朝、急に喋らなくなった娘。
10分経過したところで、体温計を取りに走る私。
これだけで異常を疑われる、この子って一体…。
実際に、口数がまりにゃんの健康のバロメータになっているのが、笑えます。

気になるお熱は37.0℃。微妙です。保育園に行くかどうかは本人の意思に委ね(無責任)、その結果、登園。先生には、口数が減ったので、これから具合が悪くなるかもしれないと、そのまんま~な状況説明をし、様子をみてほしいとお願いして、帰宅。
そして、12時少し前。心の準備をしていた割に、またしても「花のワルツ」に踊らされ、賭けに敗れたことを悟りました。37.6℃。お迎え要請です。

保育園に自転車を飛ばして、案外元気そうな娘を引き取りました。数日前から鼻水が気になっていたので、耳鼻科を受診。診断は風邪。咳は出ていないので、深刻なことにはならずに済みそうです。(5月の肺炎が、ちょっとトラウマ)

夕方、熱には強いまりにゃんが、珍しくぐずりました。熱は37℃台で、気持ち悪いわけでもないらしいのですが、つらい、嫌だと言って、ふぇ~ふぇ~と泣き続けます。切迫した症状らしきものは見られなかったので、とりあえず、赤ちゃん返りしたでかい娘を、絶不調な私のハラの上に乗せて、床にごろ寝。
まりにゃんは泣きながら、私の肘をさすさすして(肘フェチ)、そのうち眠りにつき、起きた時には、いつものまりにゃんに戻っていました。

夜も静かに眠って、今日は朝から元気そう。音楽をかけて、自作ダンス発表会などをやっていたのは30分前。現在、ソファにて沈没中。
だから、おとなしくしていればいいものを…。
熱はみみっぴで37.1℃。やっぱり微妙です。果たして明日、保育園復帰はなるか?

ところで、まりにゃんは月末の運動会で小太鼓を任されているのですが、この小太鼓は、実は重要なポジションらしいです。まりにゃんがリズムを作って皆を引っ張る、という図式が出来上がっているのだそうで、先生から「早く元気になって戻って来てね!」と、真剣に頼まれてしまいました。

わー。責任重大じゃ~ん。まりにゃん。
おちおち休んでいられませんって、なんだか社会人みたいよ!

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2006年9月 4日 (月)

ベテラン患者の正体

最近、クローン病患者さんが作られている、mixiのコミュニティを覗く機会を得ました。
メンバーさん達の自己紹介欄や、一部のトピックに目を通してみて、思ったこと。
クローン病の患者さんって、なんて大変な生活を送っているんだろう…。

………他人事?

何といいますか、「うんうん。わかる、わかるよっ」というよりも、「ひぇー……」と思うことの方が多い気がして…!
クローン病といえば、自分一人しかいなかった世界に住んでいた私にとって、これは一種のカルチャーショック。

飛び交うカタカナ専門用語やアルファベットの略称。それは一体何の話? 皆さん、なんでそんなに自分の病気と症状に詳しいの? 私の、自分の病気に関する知識といえば、消化器官全体に特徴的な潰瘍ができる病気で、完治不能である、ということ。これだけなんですよ? ええ。本当です。

クローン病の情報を求めて、訪問してくださった方に警告…というか、ザンゲします。
発症からの年数と、知識の量が比例しない、役立たずの患者も存在します。ここに。

ちょっと言い訳してみると、実際、時代が違うのです。私が発症した1988年は、日本における患者総数は4000人台。最初の主治医はクローン病を知らず、本もなく、インターネットどころか、パソコン自体が一般に普及していません。

医学辞典の短い記述と、外来での医師との会話のみを情報源として、3年の闘病生活の後、22歳の若い身空でハラをざっくり割られた私。
それから、運よく緩解期を保って、十数年。一般人になりきって、社会に紛れ込んでいる間に、いつのまにか時代は変わっていたようです。

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ところで、私が今になって自分の病気に関心を持ち始めた理由は、出産トラブルの原因究明。こちらも、今さら感がありますが、そのトラブルとクローン病の因果関係について、症例はないかと探していたところ、出産経験のある患者さん自体が、まだそんなに多くはないらしいという、各筋(って何だ?)からの情報。

妊娠は計画的に? 聞いてませんよ。私。
結婚する時、主治医に今後のことを尋ねたら、「妊娠出産は産婦人科の領域だから」と断言されて、完全に放ったらかしにされていましたけど…。
無知だったのは、私か医師か?(コラ!)

ちょっと思い出したのですが、若かった頃の私が心を悩ませていたのは、「こういう病気を持っている自分と、結婚してくれる人は果たしているのか?」ということでした。
結婚や出産が、幸福の絶対的な要素だとは思いませんが、若い女性なら、無関心ではいられない問題ですよね。

当時はかなり悲観的になっていた私の、十数年後はこの通り。
クローン病でも出産は可能だよ!の実例を、一件追加しましたよ!
同じ悩みをお持ちの女性患者さん! 人生、何が起こるかわかりません。希望を持ってくださいね~。(重篤患者さんの神経を逆撫でしてませんか…私)

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さて、いつの間にかすっかり私の雑記帳と化した、かつての育児オンリーブログ。ここでまた、方針を変更します。
我が家の6歳児も、毎日ネタを提供してくれるわけでもないため、合い間を縫って、出産まで範疇に入れた闘病記録などを、順次出していこうと思います。

当時は日記をつけていなかったため、記憶を辿ってメモ書き中なのですが。しかし…。
現在進行形の「つらいよ~」は、臆面もなく言えるのに、過去の痛い系ネタは、どうしてこんなに照れるのでしょう。
自分が客観的になってしまうと、ダメなのでしょうね。きっと。

それにしても、最近のことは何でも忘れるくせに、昔の記憶ほど鮮明に思い出せるって、私の正体、実はバーサンなのでは…?

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ポップコーンマジック

ポップコーン。はっきり言って、ものすごーく簡単な、手作りおやつです。

昨日、お鍋にコーンをばらまいたところで、ふと思いついて、ポップコーンができる過程を、娘に見せてあげることにしました。
まりにゃんを傍に呼び寄せ、お鍋の中身を見せた後、火にかけます。透明の蓋がポイント。まもなく、ぽーんぽーんと勢いよく弾け始めるコーン達。
お豆のような粒々が、次々とポップコーンに変じる様を目の当たりにして、まりにゃんは「わあぁ~ぁ」と感動~。興奮して、しきりに「ママって、すごい! すごぉ~い」と繰り返します。

え? ママが、ですか? Why

どうやら子供の目には、あのコーンの大変身は、調理人の技術に見えるようです。
こんなことで、子供から尊敬の眼差しを向けられるとは、これぞまさしくマジック。
最近子供になめられているとお悩みのお母様、是非一度お試しあれ。

…って、こんなおばかなネタを、本気でアップする気なのか?!私!

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2006年9月 1日 (金)

進歩いろいろ

とにかく喧嘩の多い、私とまりにゃん。理由は、元をただせば些細なこと。そして、毎度ほとんど同じこと。結局私はいつも、「何百回同じことを言わせるのよっ!!」という理由で怒っている気がします。ほんとうに、学習しない子供です。
…と思っていたところ、最近様子が変わって来ました。

口からでまかせで、自分のツミをごまかしにかかります。
あるいは。
ゴタクとヘリクツを並べて、自己正当化をはかります。
その結果、私の神経は一層逆撫でされます………。

これのどこが、今日のテーマに結びつくのかというと。
まりにゃんも、私に怒られない方法を考えるようになった!…ということですよ。
思い切り逆効果になっているとはいえ、これはこれで、リッパな進歩です。
次の段階で是非、的外れな対処療法よりも、根本治療に努めるようになってほしいものです。

もちろん、まりにゃんはクソガキャ~化しているだけではありません。正真正銘の成長も、ちゃあんとしていますとも。

まず、トイレ。
トイレのドアを閉められるようになりました。「仕上げ拭きしてぇ」と、叫ばなくなりました。これは嬉しい! 完全自立~?
まだ、部屋でパンツを脱いでからトイレに走るのですが、外ではそういうアブナイことはしないので、特に問題はないでしょう。

次に、保育園から汗だくで帰ってきた時の、シャワー。
先日、自分でやると言い出したまりにゃんは、上手に、そしてすっごく嬉しそうにシャワーを使った後、上がる時には、お風呂の床全体に水をかけて、泡や汚れを流してから出てきました。
私が帰省している間、必ずお風呂をカビだらけにするパパに、見せてあげたいです。

ところで、6歳にもなれば、お風呂は一人で入れて当たり前、と思われる方も多いかもしれませんね。
今でこそ、いろいろなことをやりたがるまりにゃんも、かつては「なんでもやって!」な女王様でした。いつだったか、お風呂で「自分でやってごらん?」と言ったところ、女王様は「やだ!!」と即答し、なぜか絶叫。この騒ぎを虐待と勘違いして、1階の人(同居人)が怒気をみなぎらせてすっ飛んで来た、という過去があるのです。

それ以来、私も身動きが取れないお風呂場での冒険は控え、今に至るというわけで…。
私の自己正当化? いえいえ。現実逃避です。

台所のお手伝いにも、興味を示しています。
ヨコハマでおばあちゃんと練習した餃子包みを、昨日、家でもやらせてみたところ、お世辞抜きで上手にできました。ほとんど手直しせず、フライパンへ直行。

次は、何をやらせましょうか…の前に、失敗談を一つ

1ヶ月ほど前、ごはん作りたい~とせがまれた私は、まりにゃんに包丁を持たせて、材料としてきゅうりを与えてみました。すると、まりにゃんは、包丁を振り上げ、猛烈な勢いできゅうりに襲い掛かりました。すぱーんすぱーんと刻まれるきゅうり。しかし、狙いが定まっていません。ひぇぇと慌てて、まりにゃんの振り下ろす斧…ではなくて、包丁から身を引く私。押さえていたきゅうりが、くるんと転がりました。まりにゃんはそれを自らの手で押さえ、また包丁を振り上げました。

我に返った私が、暴走する娘を取り押さえた状況は、結構危機一髪だった気がします。
きゅうり、随分短くなっていましたもの。次の一振りできっと、自分の手も一緒に、すぱーん!
………想像して、ご気分が悪くなった方がいらっしゃったら、すみません…。

ちなみに、この時まりにゃんは、理性がぶっ飛んでいたわけではなく、包丁は手早く動かさなきゃ!と一生懸命だっただけみたいです。
ゆっくり、丁寧にね、と私はちゃんと言ったのですけれど、例によって、聞いちゃいませんでした。

にゃんこに凶器。当分はお預けです。

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