闘病記14 結婚
闘病記14 結婚
クローン病発症と同時に、社会不適格者の烙印を押された私は、自分の将来に悲観的だった。たくさんあるはずだった人生の選択肢が、難病という肩書きによって、幾つも手の中からこぼれ落ちた。仕事はこれからもつまずき続ける。プライベートも、結婚どころかつきあってくれる人さえ、きっといない。そんな風に考えていた。何に対しても、自信がなかった。
だが、痛みに苦しもうと、仕事でつまずこうと、それなりに生きていけるものだと知って、病気の自分を卑下する気持ちは、少しずつ軽減されていった。
緩解期に入り、気持ちにゆとりができると、自然に彼氏もできた。普通につきあい、普通に別れた。そんなことを、何度か繰り返した。
交際する際、持病をハンデだと意識したことはなかった。再燃を繰り返す病気が問題になるのは、相手と共に歩く未来を見据えた時で、それは自分には縁がないことだから、関係ない。
当時は自覚していなかったが、簡単に手のひらを反す人や世の中を、恐れる気持ちはなかなか抜けず、予防線を張って自分を守っていた。
『彼』 とも、今が楽しければそれだけでいいと、面倒な事は考えずにつきあい始めた。気楽につきあうつもりが、2週間で、あらたまって病名を告白する展開になった。彼と共に過ごす時間は、とても心地よかった。だから、早くきちんと話そうと決めた。これで彼は離れて行くかもしれない。でも、今ならまだ、私の傷は浅くて済む。
心の準備万端で臨んだ。私の病気が普通ではないことがぴんと来るように、自治体から発行される 『特定疾患医療受給者証』 を、彼に見せた。彼がその受給者証を手に取った時、心臓がずきりと痛んだ。言葉で説明するにとどめておけばよかったと、後悔した。彼に迷いがあれば、これはきっと駄目押しになる。私は割り切ってなどいなかった。これで終わりなんて嫌だと、強く思っていた。
「おれの気持ちは変わらないから」 それが彼の返答だった。病気は関係ない、ではなくて、病気も私の一部だと認めた上での、言葉だった。そういった経験を経て、今の私がある。その私を好きになったのだから、病気は否定すべき要因ではない。再発を前提とした難病だと聞かされても、自分の気持ちは変わらない。そう、彼は私に告げた。
たで食う虫も好き好きを、地で行くこの彼と、2ヶ月つきあった後、結婚した。誰もが驚くスピード結婚だった。スピード離婚の可能性も、考えないではなかったが、迷わなかった。人生で失敗することなど、いまさら恐くなかった。
そして現在。結婚から9年目に突入した。先日、私の病気が再燃し、彼の覚悟の程が試される機会があった。彼は難病の妻を支える夫の役割を、当然のように受け入れて、私と私の親を安堵させた。
夫婦といえども、相手の本音や覚悟を知る機会は、多くはない。普通とは違ったものを持つがゆえの役得だったかな、と不謹慎に考えている。
一方、当事者同士の問題では済まないのが、結婚という関係の難しい一面だと思う。
夫の両親は、私の病名と病気の実態を知らない。話していないからではなく、彼らに知る意思がない、という理由による。彼らは難病という言葉で、思考停止してしまっている。病気も、病気を持った私自身も、息子の幸福を妨げるものでしかない。それを、彼らの口から私が聞かされたのは、結婚から数年後、先方が希望した同居に踏み切った後だった。
この経緯は、同居人ネタとして以前記事にしたため割愛するが、きついことを言われ慣れている私にとっても、彼らの言葉と態度は最強最悪で、苦悩は現在も続いている。
先日、私が食事制限を開始したことを知ったその日から、義母は1階の部屋の扉を締め切って、私の前に姿を見せなくなった。義父に関していえば、半年、私は顔を見ていない。嫁のことが気に食わない時は、孫娘もろとも物理的に締め出す。それが彼らの通常のやり方だった。私が緊急入院しても、私の娘の世話を快く引き受けてくれることはないと、残念ながら確信できる。
人生に無駄な経験はない。そう信じて、私はつらい過去の出来事も、概ね自分の中で受け入れられるようになっている。義父母の容赦ない攻撃で、私が完全に潰されなかったのも、過去の社会生活で作られた免疫があればこそだった。その意味では、今は理不尽なだけの義父母の存在も、いつか自分の糧になったと言える時が来るのかもしれない。
とはいえ、過去を一度だけやり直せるとしたら、夫の両親との同居話を承諾する前に戻って、別の選択をしたいと思う。
あの時私が彼らの本音を知り、適切な距離を見極めていたら、この義理の親子関係は、ここまで決定的に決裂しなくても済んだかもしれない。同居したことは、双方にとって残念な、そして誤った選択だった。



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